2日間のお正月休みがあっという間に終わり、そろそろ旅に出ることにした。
家でぼんやりと過ごしながら、YouTubeで2024年7月にウラジオストックからサハリンに行った旅の映像を見た。
そうか、ウラジオストックからサハリンというルートがあった。
2017年6月、チェーホフ劇場が開催している演劇フェスティバル「ランパ」での公演のためユジノサハリンスクに行き、今度は旅行で訪れたいと思っているうちに、新型コロナウィルスの流行、そしてロシアのウクライナ侵攻。現在は新千歳空港-ユジノサハリンスク間の飛行機も運航していない。
このユジノサハリンスクでの数日は私にとってとても大切な時間だった。
抗がん剤治療を受けていて、ツアーメンバーには行けないと言いつつ、主治医に恐る恐る尋ねると、「水にだけは気を付けて。ピロリ菌がいる可能性が高いから」とサハリン行きを勧めてくれた。彼はサハリンからはるばる札幌まで治療に来る患者も診ていた。
落ちている体力とかつらという不便さもあり、少しの不安を抱えての出発だったけれど、滞在中は新しいスニーカーで目的地を定めずによく歩き、白樺やライラックなどの木と花を楽しみ、旧ソ連の匂いがする建物とそこに住むであろう人たちを想像し、ボルシチ、ペリメーニ、黒パン、ビーフストロガノフ、ブリヌイ、魚のムニエルなどをもりもり食べ、そして必ず訪ねたかったサハリン韓人文化センターも訪問できた。少しだけ辛い時期に勇気を持てる、そんな数日だった。
稚内の宗谷岬とサハリン南端の距離は43キロ、時速60kmで車を走らせれば43分で着く。なのに、今はとても遠い。
旅の同伴者は宮沢賢治。
宮沢賢治は、1923年7月31日に花巻を出発し、青森、盛岡、函館、札幌、旭川、稚内を経て、8月3日に樺太・大泊に到着。樺太では豊原(現コルサコフ)、栄浜(現スタロドゥブスコエ)に、そして花巻の自宅に帰ったのは8月12日。
この旅の間に書いた詩「青森挽歌」「青森挽歌三」「津軽海峡」「旭川」「宗谷挽歌」「駒ヶ岳」「オホーツク挽歌」「樺太鉄道」「鈴谷平原」「噴火湾(ノクターン)」が、「春と修羅」「春と修羅」補遺に収められている。
3か月かけて、詩をゆっくりと読みながら、宮沢賢治のサハリン紀行に関する本や資料を読む旅。
旅の水先案内人は、
「春と修羅」(宮沢賢治)
「春と修羅」補遺(宮沢賢治)
「銀河鉄道の夜」(宮沢賢治)
「サガレン 樺太/サハリン 境界を旅する」(梯久美子/2020年/角川書店)
「宮沢賢治×旭川 心象スケッチ「旭川。」を読む」(松田嗣敏/2023年/未知谷)
「宮沢賢治「旭川。」より」(あべ弘士/2015年/BL出版)
「宮沢賢治とサハリン 「銀河鉄道」の彼方へ」(藤原浩/2009年/東洋書店)
「宮沢賢治サハリン紀行ノート(第一部)」(加藤多一)
「地球の歩き方 極東ロシア・シベリア・サハリン」
小さな部屋にいても、旅はできる。
そして、ここから世界をみよう。